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デコ屋敷と三春駒三春駒の素晴らしさ三春駒の伝説白駒の由来デコ屋敷三春張子の起こり左馬

デコ屋敷とは

三春駒
デコとは土地独自の読み方で、木彫りの人形の意味です。

デコ屋敷と三春駒

デコ屋敷は三春駒・三春張子など三春の民芸品全ての発祥地。
(デコとは木彫りの人形のことで木偶(デク)の別な読み方)
三春駒は日本で最初の年賀切手に採用された名実ともに日本一の郷土玩具です。その三春駒を製作したのが当彦治民芸の9代目当主 橋本彦治です。
現在は郡山市ですが、江戸時代は三春藩領の高柴村であったため、昭和初期になり三春駒・三春人形という名がつけられました(明治以降、三春とは分かれています)。
発祥地のデコ屋敷で戦後以降、ただ一軒木彫りから作り続けているのは『彦治民芸』だけですので 本物の三春駒は当店でしか購入できません。 もともと三春駒の本当の名前は「高柴木馬(きんま)」といい、三春張子のことを「高柴張子」と呼んでいました。江戸時代に書かれた由来所には一切「三春駒」という名は使われていませんでした。 「三春駒」というのは本物の馬につけた名前なのです。江戸時代三春藩領は貧しい藩でしたが、唯一 野生の馬がたくさんいたため、その野生の馬を良い馬に改良して藩の産業にしていたのです。その本物の馬につけていた名前が「三春駒」でした。 しかし、時代とともに野生の馬がいなくなり、ここ高柴でつくられていた『高柴木馬・高柴子育木馬』がいつの間にか『三春駒』と呼ばれるようになってしまい全国に広まったのです。三春藩のなごりで三春駒・三春張子人形と呼ばれるようになったのは昭和初期になってからです。

三春駒の素晴らしさ

すべて直線で造られていて美しい上品な完成された紋様にあることです。
日本一の民芸品である三春駒(日本三大駒の一つ)の黒駒は、子宝・安産・子育てのお守りとして作られ、白駒は老後安泰・長寿のお守りとして作られています。黒い三春駒は昭和二十九年、郷土玩具として日本で最初の年賀切手に採用され、日本一の郷土玩具となっています。

この年賀切手のモデルになったのは彦治民芸当主であった九代目前当主橋本彦治が作った三春駒です。
また、息子の橋本高宜(たかよし)(十代目現当主)の作った「腰高とら」が平成十年のとらの年賀切手に採用され、三春駒と共に東京の逓信総合博物館に展示されています。
(デコ屋敷4軒それぞれ作られていますが、1軒ごとに形と書き方が違います。年賀切手に採用されたモデルは当店の製品です。郵政省からの製作者の名前が入った証明書が届いております。)

三春駒は現在、発祥地であるデコ屋敷四軒の中ではただ一軒、彦治民芸でしか木彫りからの製造は行われていません。
 また、白い三春駒は昭和二十七年に東京三越本店で福島県第一回目の物産展が開催された時に九代目彦治が初めて作りました(白駒の元祖 彦治民芸)。

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三春駒の伝説(高柴子育木馬)

高柴デコ屋敷(東奥州田村郡三春城外高柴村)で生まれた三春駒(高柴子育木馬)の伝説は古く、延暦十四年(795)坂上田村麻丸(麻呂)が大多鬼根山(大滝根山)の石の洞窟に住む大多鬼丸という賊の征伐に京都を出発した時、京都清水寺の開祖と言われる僧延鎮が、五体の仏像を刻んだ残りの材で鞍馬百疋(ひき)を刻み、田村麻呂将軍に贈った(つまり仏像を造った残りの木で100匹の木の馬をつくりお守りとして贈っていたということ)。将軍はこれを鎧櫃(よろいびつ)におさめて征夷の途にのぼり、やがて戦いは開始されたが、官兵は京都よりの遠路に疲れていたので苦戦であった。その時どこからか、鞍馬百疋が官兵の陣営に走り込んで来たので兵達はその馬に乗って大多鬼根山へ攻め登り、ようやく大多鬼丸を滅ぼすことが出来た。ところがその後、鞍馬百疋の行方がわからなくなってしまった。
 翌日、一疋の木馬が三春近くの高柴村(デコ屋敷)で汗にまみれているのを里の人の杵阿弥という者が拾い、これは延鎮の作の百疋の木馬の一つであると聞き九十九疋を自分で作り補っておいた。三年後には、この拾った一疋も行方がわからなくなったので、九十九疋を杵阿弥の子孫はこの駒を模作して里の子供に与えたところ、これで遊ぶ子供は健やかに育ち、子の無い者も三粒の大豆を飼葉として木馬に与えると子宝に恵まれるといわれ、また、疱瘡(ほうそう)・麻疹(はしか)も軽くなるといって、誰というとなく「高柴子育て木馬」と名付けられた。
 この伝説の原文は今もデコ屋敷内に高柴村製木馬伝来の記として木版に残されています。三春藩はもともと野生の馬が多く生息していて、藩を豊かにするための産業として馬を改良し多くの良馬を生み出しました。その良馬は三春馬(三春駒)と呼ばれ、全国へ広がりました。そのため人々は馬育成の祈りのため、神社や馬頭観音に絵馬や高柴村で作られた木馬を刻んで奉納するようになり、また子供の玩具に用いたりしました。それが次第に坂上田村麻呂の伝説に結びつき高柴子育木馬の由来になったのではないかと言われています。三春駒の「駒」と雄馬のことで雄馬は雑役と呼ばれていました。

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白駒の由来(老後のお守り)

時代は降って文久年間、当時、三春藩の馬術師範にしてその技正に神技と称せられ、令名高かった徳田三平師範はその乗馬にして稀代の名馬「養老号」を愛育して居たがこの養老号は名にしおう名馬の産地三春藩に於いても稀代の逸足で全身雪の如く白く、その気凛位穏、脚は千釣の重みに堪えゆるところの名馬中の名馬であった。その勇姿を永く後世に止め、その面目を残さんとの藩主の命により、徳田師範は彫刻師伊藤光運に命じて等身大の木像を彫刻せしめ、三春大神宮に奉納した。
 現在もこの白体の木像は町民に親しまれ「神明様の白馬」と呼ばれている。
そして種々の不思議も語られたのであった。
 さて名玩、三春駒の製作者たちは何時とはなしにこの白馬を模して三春白駒を作るようになり、この白駒は名馬養老号の名に因んで老後のお守りとされ、子育駒と共に幼時より晩年のお守りとして広く賞受されて、今日に至ったのである。
 高柴デコ屋敷の三春駒は木彫りで直線と面を生かした巧みな馬体と洗練された描彩は、日本随一として有名です。どうぞこの由緒ある三春駒を末永く飾っていただければ幸いです。
白い三春駒は昭和二十七年に東京三越本店で福島県第一回目の物産展が開催された時に九代目彦治が初めて作りました(白駒の元祖 彦治民芸)。

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デコ屋敷三春張子の起こり(十二支張り子の元祖 彦治民芸)

デコ屋敷で張子人形づくりをいつ頃から始めたのかははっきりしませんが、一説には今から三百数十年前京都の伏見人形が東北地方に流れ、やがては三春地方にも伝わり、当時貧しかった高柴村の人々がその人形を見て副業として作り始めたと伝えられています。
 その後、東北地方との交流の中で次第に成長し、参勤交代などを通してまたは上方との交流を通してその時代の文化にも接し、次第に技術が磨かれ発達したのではないかと思われています。
 そして、その人形作りが藩主から保護されたとも言われ、口伝えでは三人扶持を賜ったとも言われています。そのため、より盛んに人形作りが行われ文化文政のころに最も多く作られていました。その他の説に三春の殿様が歌舞伎が好きで人形師を江戸に連れて行き作らせたとの説や、江戸の人形師が流れ着いて人形作りをはじめたとの説(現在デコ屋敷ではこの説明はしていません)もありますが、いずれも定かではありません。
 このような話から人形作りは、やがて幸福を願って人々を災いから救う信仰玩具として作られるようになり、高柴木馬(三春駒)や張子人形もいろいろな信仰と結びついて伝説を生み、長い間デコ屋敷の人々に受け継がれています。
 三春張子は木型を用い、紙を張り付けて作り、優雅で動きのあるのびのびとした形が特徴です。
 三春張子の中で人気のある十二支・干支張子は十二支全て揃っていた歴史は福島県にはなく、もちろん三春地方・デコ屋敷にもありませんでした。馬の三春駒や虎の腰高とら・うさぎの玉うさぎなどは、会津の赤ベコと同じように、十二支としてではなく、玩具の中の一つとして作られてきた物で、最初に十二支を全部揃えて作ったのは、彦治民芸の九代目 彦治です。
 現在はそれが広がり、県内どこでも作られるようになりました(十二支の元祖 彦治民芸)。
 この十二支は暦法で、中国では十二宮のおのおのに獣を充てたもので、時刻及び方角の名としたとあり、また十干(甲乙丙丁戌己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)とを配合して日の名、年の名ともしたとあります。なぜ干支の十二支の文字に十二の動物の名を当てはめたかは、はっきりしません。十二支が日本に伝わり江戸時代には生まれ年に当たる動物の性質がその人の性質や運勢などに関係するものという信仰が広まり、そして年の締めくくりと新年の門出を祝して招福を願い縁起物として十二支を揃えるようになりました。
 その後、戦後に民芸復興が起こり昭和二十九年の午歳に十二支として三春駒が日本最初の年賀切手に採用され(当彦治民芸9代目が製作したものが採用された)、毎年各地の干支が年賀切手の題材に採用されるようになりました。

十二支の元祖彦治民芸の三春駒と腰高とらが親子二代で年賀切手になりました。

彦治民芸の十二支は素朴でかわいらしくて、心に忘れていた安らぎと微笑みをもたらしてくれるお守りとして、これからも人々に愛され続けることを願っております。どうぞこの由緒ある三春駒と張子玩具を末永く飾っていただければ幸いです。

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左馬

福や富を祈願する、家運隆盛、商売繁盛の象徴。

左馬(ひだりうま)は、「馬」の字を逆さにしたもの、あるいは頭が右で、尻尾が左にある馬の絵を言います。「うま」を逆さまに読むと「まう(舞う)」となり、「舞い」はおめでたい席で催されることから、左馬は吉祥の象徴とされています。また、馬は左に倒れないことから、左馬は家運が傾かず、家運隆盛、商売繁盛を願うとも言われ、さらに、馬の字の下の部分が財布のきんちゃくの形に似ており、きんちゃくは口がよく締まってお金が逃げていかないため、富の象徴とも言われています。これらのことから左馬は大吉兆の象徴とされています。

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